足助の歴史

1. 鎌倉時代

鎌倉時代の終わりごろには、足助にも人が多く住むように なりました。田畑が開かれ、寺院が建てられました。鎌倉時 代の山茶碗や小皿が発見されていることから、現在の集落の もとになる村がこのころにできたと考えられます。

 

足助氏

尾張の山田荘から足助荘の荘官(荘園を管理する役人)として移り住んだのが山田氏でした。初代重長は追分の黍生山 (標高 374m)に住み足助氏を名乗りました。2代重秀は黍生城から飯盛城に移りました。居館は現在の香積寺境内に構えたと考えられ、8代重政まで居城しました。

飯盛山は標高 254mですが、南と西に巴川、北に足助川が流れ、敵から攻められにくい場所にありました。飯盛城を中心に臼木ヶ峯城、成瀬城、黍生城、真弓山城、大観音城、城山城があります。これらの山城は飯盛城を守るような位置につくられ「足助七屋敷」「足助七城」と呼ばれています。

 

8代重政の時に足助氏は足助を去り、一族の大部分が信州へ移住したと考えられています。

 

 足助(山田)氏の一族

 初代重長 山田荘から黍生城に移る

 2代重秀 飯盛城に移る

 3代重朝

 4代重方

 5代頼方

 6代貞親

 7代次郎重範 笠置山の戦いに参加

 8代重政 足助から信州へ移る

 

2. 室町時代

足助は、信州や美濃と三河、尾張を結ぶ街道が交差し、東三河へ通じる道も通るなど交通の要所でした。そのため、勢力を伸ばそうとする武士にとって、足助をおさえることはとても重要だったのです。このころになると、現在の町並の原形が形成されたと考えられています。

 

足助鈴木氏

足助鈴木氏は、真弓山に足助城を建てて住みました。鈴木氏は初代忠親から5代康重までの間に少しずつ勢力を伸ばし、足助を中心に領地を広げました。大永5年(1525)、岡崎の松平氏(のちの徳川氏)が足助城を攻め、それ以後足助城は、松平氏や今川氏、武田氏の戦国大名にくり返し攻められました。

鈴木氏は、これらの戦国大名に従ったり、離れたりしましたが、徳川 (松平)家康が三河をおさえてからは家康の家来になり、各地の戦いに参加しました。天正 18 年(1590) 徳 川氏が関東に移るとき、徳川氏に従って関東に移りました。 

 

3. 江戸時代

江戸時代は足助村・今朝平村・中之御所村の3つの村からなっていました。江戸時代のはじめは、天領、大名領、旗本領と領主の交代が頻繁に行われました。天和元年(1681)に本多忠周が3つの村を治め、陣屋を足助村に置いてからは、幕末まで旗本本多家の支配が続きました。寛永6年(1629)の足助村は、東町、西町、新町、田町の4つの町と、宮平 (宮町)、落部(西町)、岩崎(田町)、その他からなっていました。東町町から本町に町名が変わるのは、天和元年(1681)に本多家が陣屋を東町の東端に置いてからと考えられています。

 

塩の道・中馬(ちゅうま)街道

世の中が落ち着いてくると、物資の輸送や庶民の通行が盛んになりました。三河と信州を結ぶ道は重要な道で、江戸時代から「塩の道」と呼ばれました。このころは馬の背に物資をのせて運びました。伊那の馬方たちが「中馬」という組合をつくっていたので「中馬街道」とも呼ばれていました。

 

在郷町足助

矢作川・巴川の舟運や中馬などが発達すると、商品の流通が盛んになりました。足助村は、元禄(1688~1704)頃になると、宿場的要素にくわえて商業の中心的な性格が強まり、 在郷町としての景観を整えるようになります。その結果、「足助村」であっても「足助町」と呼ばれたり、私文書に「町」 の名称が使われたりするようになりました。

 

安永の大火と町並の復興

安永4年(1775)に起きた大火で、足助川右岸の田町から新町までのほとんどが焼失したとされています。

 

安永の大火の被害

普光寺本堂:享保12年(1727)の建立で、焼失を免れました。

慶安寺山門:安永2年(1773)の建立で、焼失を免れました。

紙屋旧鈴木家住宅主屋:大火の翌年、安永5年(1776)に建造されました。

藤屋鈴木家住宅主屋 :大火の翌年、安永5年(1776) に建造されました。

草葺禁止、瓦葺・杉皮葺に

文政2年(1819)の夏に田町の藤八が寺本(引陣~石橋)に建てた小屋は茅葺きで火の用心が悪いと問題になりました。同3年6月に なって示談が成立し、同6年春までに瓦葺きか杉皮葺きに改めることになりました。同7年の秋になって杉皮葺きに改めたそうです。

 

加茂一揆

江戸時代の終わりごろ天保7年(1836)9月21日夜、三河最大の一揆が起きました。松平周辺の百姓数十人が、米や酒の値下げなどを要求して起こしたものです。参加村数247か村で、参加者は約1万3,000 人にものぼりました。

 

加茂一揆 足助の被害

足助村も二度襲われ大きな商家が被害を受けました。

 

9月23日朝

西町の酒造家山田屋与茂八 ・穀屋木市屋仁兵衛、本町の紙屋利兵衛・酒造家上田屋喜左衛門・酒造家白木屋宗七宅が襲われました。

 

9月24日夜

田町の穀屋石原屋忠吉、岩崎(田町)の穀屋浅屋幸吉、今朝平村の染屋宗助・車屋 源蔵、中之御所村の与右衛門宅などが襲われました。

 

4. 明治以降の足助

江戸時代の終わりごろ、商業の町として栄えた足助村は明治23年(1890)に「足助町」となりました。

 

産業の発展

足助でも農業や林業をはじめ、それらの副業として養蚕、 畜産などに新しい技術が取り入れられるようになりました。また、製糸業、製材業、製綿業などの新しい産業も行われるようになりました。

 

中央線の開通

明治44年(1911)に鉄道(現在のJR中央線)が全線開通したことは、流通の拠点として発展してきた足助町にとっ て大きな打撃でした。これ以降、足助町は東加茂郡の政治、 経済、文化の中心地として歩み続けていきます。

 

もみじの名所 香嵐渓

江戸時代のはじめに、香積寺の参栄和尚が参道や境内に植えたもみじは大きく育ち、「香積寺のもみじ」と呼ばれていました。大正12年 (1923) から、町の人々の協力によって、飯盛山を中心に巴川一帯にかけて整備が進められました。昭和5年(1930)には「香嵐渓」 と名前が付けられ、広く県内外に知られるようになり ました。

 

林業の発展と衰退

旧足助町は面積の86.8%(平成17年)を森林が占めていて、昔から山林や木材を生活に利用してきました。明治以降、林産物(薪、木炭、竹材など)の売買が盛んになると、足助の林業は大きく発展しました。木を切り出して使うだけでなく、木を植えて育てる造林も盛んになり、活発な林業経営が行われました。足助の林業は昭和30年(1955)ごろまで発展を続けましたが、石油や電気などへエネルギーが変わったことや外国から安い木材が輸入されるようになったこと、また豊田市方面へ働きに行く人が増え林業をする人が少なくなったことから、急激に衰えていきました。

 

※「重伝建「足助の町並み」を活用した学習ガイドブック」(豊田市教育委員会 教育行政部 文化財課足助分室発行)より