足助の重要伝統的建造物群保存地区

1. 塩の輸送

足助を通って三河から信州に至る道は、庶民の通行や日常生活に欠かせない塩が運ばれていたため「塩の道」と呼ばれ ていました。尾張・三河から信州へは五街道の中山道もありましたが、大名の参勤交代などの御通行が多かったため、物資の運搬や庶民の通行に様々な制限が加えられていました。 

 

 

 

信州へ送られる塩は徳島県や香川県などの西国塩もありましたが、三河湾沿いの矢作川河口近く(碧南市の大浜・棚尾、半田市の成岩、一色町の生田、吉良町の饗庭など)で生産された塩がほとんどでした。巴川を川船でのぼって平古(岩倉町)で降ろし、足助へ送ったものが多かったようです。

 

塩俵1俵の目方は4貫目(15kg)で、西国塩は6貫目(22.5 kg)、成岩塩には大俵・小俵があり、小俵は2 貫目(7.5 kg)でした。足助の塩問屋(塩座)では、塩ふみを行って品質を均等にし、足助から奥の山坂の運搬に備えて塩俵の重さを7貫目(約26kg)に包み直しました。足助で改装された塩は「足助塩」「足助直し」の名称で信州へ送られました。

 

2. 重要伝統的建造物群保存地区

豊田市足助は、平成23年(2011)6月に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に愛知県ではじめて選定されました。

 

重要伝統的建造物群保存地区(2015年4月現在110ヶ所)

集落・町並について、昭和50年(1975)の文化財保護法の改正により、周囲の環境と一体をなして歴史的な風致を形成している伝統的な建造物群を文化財としてとらえ、これと一体をなして歴史的価値を形成する環境を含めて保存する「伝統的建造物群保存地区」制度が創設されました。

 

この伝統的建造物群保存地区は、そこに暮らす住民の生活とともにあり、地区の住民と市町村が協力して主体的に取り組める仕組みになっています。そして、国はとくにその価値が高いものを、「重要伝統的建造物群保存地区」として選定し、さまざまな側面から支援を行うという点に特徴があります。

 

 

3. 昭和50年代の足助の町並保存運動

昭和25年(1950)を頂点に人口が減少し、空き家や空地が目立ち始め、かつて繁栄した時代の面影が失われていきました。昭和50年(1975)10月23日に町内有志約30人が集まり「足助の町並みを守る会 (会長田口金八氏)」が設立され、これを機に足助の町並保存運動は大きく展開していきます。

 

昭和53年(1978)には「第1回全国町並みゼミ」が名古屋市有松と共同開催されました(全国から450人の参加)。

 

昭和52年(1977)、田町の足助町農業協同組合金融部の建物が空き家になり、建物を取り壊して駐車場にする計画が持ち上がりました。この建物は大正元年(1912)に稲橋銀行足助支店として建造されたもので、明治から大正期にかけての典型的な地方銀行の社屋として高い歴史的価値を有していました。「足助の町並みを守る会」は駐車場計画を中止し、建 物を保存してもらうために、足助銀座商業協同組合と話し合いを重ねました。その結果、建物は無事に保存・活用されることになり、昭和57年(1982)6月に足助中馬館として開館しました。

 

豊田市足助中馬館

明治36年:稲橋銀行足助支店が開設 

大正元年:稲橋銀行足助支店の新社屋(現足助中馬館)竣工 

昭和29年:金庫室が増設 

昭和46年:足助町農業協同組合が取得し昭和52年まで営業 

昭和57年:足助中馬館として開館 

昭和59年:愛知県指定有形文化財

 

※「重伝建「足助の町並み」を活用した学習ガイドブック」(豊田市教育委員会 教育行政部 文化財課足助分室発行)より